譲ること

こんばんは。いつもご覧いただきありがとうございます。

あるベテランのお笑いグループが、
「俺が!俺が!」
「いや俺が!俺が!」
「いやいや俺が!俺が!」
「どうぞ!」
というネタを持ち味にしています。

しかし、なかなか「譲る」ということは、覚悟の必要な行為だと思います。

今回は、「譲ること」についてお話したいと思います。

譲ることを覚えると楽

私が、私が!
俺が、俺が!
そういうところで消耗しなくてよくなります。
よほど譲れない場合は、話が別ですが。

話の順番を譲る。
相手の意見をまず聞かせてもらうことで、心の準備ができます。

譲るなりの責任

話の順番を譲った場合、
話をまず相手に聞かせてもらったのですから、
なるべくそれを踏まえて返す必要があると思います。
話題が真面目であればあるほど。

一緒にやったことの実績を譲った場合。
徹底的に譲った相手を賞賛します。
はしごを外すことなどもってのほかと思います。

見返りについて

見ている人は、誰がどこでどう頑張ったかを見ています。
そういう人に素直に感謝して、本当に「これだ!」と思える
人間関係を作っていくには、自分がやったことのプライドが
時々邪魔をすることがあります。

「あれだけやったのに」
「これだけやったのに」
「あの場面で譲ったのに」

それでは、譲ったことや、積み重ねた実績の重みが軽くなります。
譲ったことで、自分が精神的に人より優位に立ちたいのが見え隠れします。
私は、見返りを設定するのは、自分ではないということを、
常に肝に銘じています。

少しの譲り合いができれば

認められたいという気持ちは、人間だれしも持つものです。
しかし、誰しもが持つばかりに、誰かの承認を巡って、
心理的な奪い合いが始まるのも事実です。
それもまあ、避けられないといえばそうなのですが。

逆に、人間は慣れに弱いので、承認を与える側になると、
承認するための判断にも、慣れが生じてしまいます。
つまり、相手の置かれている状況を考えることなく、
さも自分のケースと同様に考えてしまって、
それどころか、自分の考えの枠に、人をはめようとさえ
することもあります。

また、そんなつもりはなくても、立場が偉くなると、
ちょっと語気が強くなっただけで、自分の意図とは関係なく、
相手にそういう強烈なインパクトを与えてしまうこともあります。

心に余裕のない時代ですが、だからこそ、
真面目に生きている人達を、ブームで取り上げるのではなく、
ほんの少しの心の余裕で、見ていてほしいのです。
近寄ったり、話をしてほしいのです。

教育の仕事だから、ではなく

人口が減る社会です。
使えない人は切る。調子が悪くなったら離れる。
それで、いいんでしょうか。

本当に、何とかしたいと思うなら、同じ土俵に立たないと、
相手も心を許してくれません。
状況が改善することも有りません。
上から目線では、ダメなのです。

なんて言っていいかわからないなら、そうやって伝えればよいのです。
何とかしてあげたいと思うなら、そうやって伝えればよいのです。
方法が見つからないなら、そうやって伝えればよいのです。

ただ、「こうした方がいい」や「こうすべきだ」は、
相手がある話なので、相手の心情に配慮するとよいでしょう。
「一緒に~してみない?」「一緒にしましょう」
ポイントは、「一緒に」です。

それと、あきらめないことを人に説くのなら、
その人に対する接し方をあきらめると、説得力が下がります。
「あきらめてはいないけど、いまのあなたの心境も尊重されるべきと思う」
私はだいたい、こう思っています。

「あの人」の代わりは、他にいないのです。

「あの人」
お子さんかもしれません。
親御さんかもしれません。
学校の先生かもしれません。
職場の上司や部下かもしれません。

どんな所属にあろうと、どんな肩書がつこうと、
「その人の代わりは、他の人ではなれない」のです。

ちょっとの心の余裕で、目に見えない努力をしている人のことを、
思い浮かべてみませんか。
成果が出ないと悩んでいるお子さんや部下、友達などのことを、
思い浮かべてみませんか。
真正面からぶつかってみませんか。

もう遅いよ、となる前に。

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